樋口一葉と水仙/樋口一葉と明治女学校

 



樋口一葉と明治女学校


明治女学校は、明治時代キリスト教の精神の基づき女性の自立を目指して、明治18年東京千代田区麹町に、木村熊二によって創立された学校です。
近代女性教育のさきがけとなった学校だったそうです。

木村熊二は勝海舟の側近として奔走した人物だそうです。
明治の世で、旧幕臣をしての生き難さを知り、明治3年渡米し明治15年まで日本には帰らなかったそうです。
のちに奥さんである木村とうこ、とともに明治女学校の初代校長をし、奥さんである木村とうこが創立の翌年コレラにかかり亡くなってから、
明治25年には、木村熊二は実質的な校長を巌本善治に譲ったそうです。
巌本善治は、明治17年6月『女学雑誌』を主宰していて、明治18年9月に明治女学校が設立されると発起人の一人となり、
開校後教鞭をとり、明治20年3月教頭になり、明治22年7月フェリス和英女学校に勤める嘉志子(若松賤子)と結婚し、
明治25年から明治女学校校長となったそうです。
そして、明治29年2月、隣家からの火事により明治女学校は焼失。若松賤子はその火事が元で持病の結核が悪化し、5日後の2月10日、33歳で死くなります。
若松賤子は、明治15年フェリス女学院高等科を第一回生として卒業後、母校の教師となり、『女学雑誌』に訳詩を掲載し、明治23年から「小公子」を口語訳で連載していたそうです。
一葉日記には明治29年6月17日、「この日 戸川残花よりのたのみにて 明治女学校建築慈善市に出すべき扇面たにざく等かきやる」とかかれていますが、学校再建に奔走する巌本に協力し、一葉直筆の歌を記した扇と短冊をバザーに出したそうです。
一葉の日記では巌本夫妻を直接は知らないようであり、三宅花圃を通しての間接的な付き合いだったようです。
しかし、樋口一葉はこの若松賤子(しずこ)にあこがれ、賤子のような文学者になりたいと勉強していたそうです。生前(せいぜん)の賤子に会うことなく、賤子の死を聞いた一葉は、

訪は(とわ)ばやとおもひしことは空(むな)しくて けふ(きょう)のなげきにあは(わ)んとやみし

という短歌を贈ったそうです。
そして、明治30年に明治女学校は豊島区巣鴨に再建されます。しかし、創立から23年、明治41年には廃校に追いやられることになったそうです。
女性教育の先駆けとなった明治女学校は、教師に当時の文壇をリードした島崎藤村、北村透谷、教育者の津田梅子らがおり、
卒業生には小説家の野上弥生子や新宿中村屋の創業者・相馬黒光らがいるそうです。
また、明治女学校が発行した『女学雑誌』からは雑誌『文学界』が生まれ前期浪漫主義文学を形成するなど、大きな影響を与えたそうです。

この明治女学校に通っていた太田竹子と樋口一葉が一緒に写っている写真が残されていますが、明治23年頃に写されたこの写真の一葉は髷ではなくいわゆる女学生の象徴であるおさげ髪で写っています。太田竹子とは入門時より親しくしていたらしく、晩年まで交流があったそうです。
当時の女学校は、女学生スタイルの象徴である、「大きなリボンに袴」ではなかったようです。
袴をはくようになったのはもう少し後になってからだったようです。

(上の写真 右:樋口一葉  左:太田竹子)


NEXT 明治時代の襖紙についてはこちらから



樋口一葉と水仙のトップはこちらから